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随想 其の伍

 よく、忙しい忙しいという人がいるが、あれは一体どこまで忙しいのだろう?という疑問をよく考える。「忙しいけれど、やりがいがあるので」なんていう人もいるが、忙しいことに変わりはないのだろう。忙しいってのは一体なんなんだろう。

 芦田先生というオジサンがいて、俺はあんまり好きじゃないんだけど、彼のブログ(芦田の毎日:http://www.ashida.info/blog/)にこんな話が載っている。



~「2005年度卒業式式辞 ― イノセントであってはならない」~

仕事を覚えて、ノウハウも蓄えて、そこそこの仕事ができるようになった後でも「時間がない」というようになります。そして、「時間がない」というだけではなく、「時間(とお金)があれば、もう少しいい仕事ができた」とまで言うようになります。

これは間違っています。こんなことを言ってはいけない。今日のこの日をもってわが卒業生たちは「時間がない」と言わないことを約束して下さい。

どんなプロの人間でもいつも時間がないこととお金がないこととの中で仕事をしています。6割、7割の満足度で仕事を終えています。悔いが残ることの連続です。プロの仕事というのは実は悔いの残る、不十分な仕事の連続なのです。

一見、すばらしい仕事に見える。お金もふんだんに使える、時間もたっぷりかけている、スタッフも充分だ、と外部から見えているにしても、プロの仕事には、それでいいということはありません。不満だらけで(穴があったら入りたいくらいの気持ちで)仕事を“終えている”。しかし外部評価は及第点を取れている。それがプロの実際の仕事のあり方です。

それは、どういうことでしょうか。

結局、6割、7割でも外部に通用するようなパワー(強力なパワー)を有しているというのが、仕事をするということの実際だということです。

皆さんが尊敬するプロの仕事は、その仕事をするための充分な時間(とお金)が与えられてできあがっている、と思ったら大間違いだということ。

「時間とお金があれば、もっといい仕事ができるんだけどな」というのは、だから“イノセント”だということです。そんな純粋な時間もお金も実務の現場には存在しません。時間もお金も実際は“泥だらけ”なのです。

6割、7割の時間とお金でも仕事ができること。それがみなさんがこの2年、3年、4年と、わが校の卓越したカリキュラムと先生たちによって勉強してきたことの本来の意味です。

〈能力〉とは60%の力で人々を満足させることのできることを言うのです。

みなさんがここ数年で学んだこと、知識と技術を身に付けたこと。それはまさに「お金と時間がない」ときにはどうすればいいのか、という知恵を付けたことにあります。そもそもそれが“勉強する”ことのもっとも実践的な意義です。

~~~~~~


 普段はあんまり芦田のオジサンの話に納得することはないのだが、この話は俺が思っていることと結構似ている。文章としてはどう考えても芦田先生の方がまとまっているので引用した次第。

 さてここで問題になるのは、「忙しい」という言葉の意味である。「時間がない」ことを忙しいというのか「空いた時間に色々と予定を入れた結果、空いた時間がなくなった」ことを指すのか。
 遊びで忙しくて忙しくてしょーがないというひとは、大抵後者の意味で使っている。そして、その発言をする人の心の中には前者の意味での忙しいという気持ちは全くなくて、どちらかというと皮肉って「忙しい」という言葉を使っている。ということは、問題になるのは「時間がない」ことを忙しいと表現する人達だということになる。

 人間というのは、自分自身でできる能力というのがある程度決まっている。ピアノを上手に弾ける人もいれば、パソコンのタイピングが早い人もいる。逆に、歩くのが遅い人もいれば本を読むのが苦手な人だっている。ひとそれぞれ、ほとんど無限に存在するあらゆる能力について、それぞれの絶対的および相対的なレベルがしっかりと存在するのである。こりゃ当たり前な話で、プロバイオリニストが100m走を走ったりしないのは、走ることは別に得意じゃないからである。
 ところが、世の中の多くの人々はこの自分自身の能力に対する評価というものが非常に下手なのだ。多くの人が、自分自身のことを過大評価・過小評価してしまっていて、なかなか自分の力を発揮できていない。その大きな理由のひとつが、周りと違うことが許されない環境にあると思う。

 たとえば、今日は気分が乗らないからこの仕事はやめておこう。今日はこっちの仕事のほうができる気がする。。。と思っても、周りのみんながすべての仕事を平均的にこなしているのを見ると、まるでそうしなければならないかのような錯覚に襲われるのだろう。そして、その錯覚をみなが持ってしまっていて、デフレスパイラルのように抜け出せない非効率の世界へと落ちていっているのである。
 そんな時、人は言う。「時間がない」と。「お金がない」と。「人材がいない」と。その言葉の意味をわかっていいっているのだろうか。答えてやろう。そんなことは最初からわかっているだろう、と。「○○がない」という発言をする時点で、その人は何も自分自身の能力について把握できていない。できている人は、はじめからそれがわかっているから、「○○がない」などという発言は絶対にしない。時間がないなら作ればよい。お金がないなら稼げばよい。人材がいないなら採用すればよい。「そんなことできる立場にいない」と言われるかもしれない。ならば今現在の立場でできることを考えればよい。「努力はしている」といわれるかもしれない。それは間違いだ。結果的に得られるものがないのであれば、それは努力の仕方が間違っているのである。努力することは悪いことではないかもしれないが、やってることが間違っていたら意味がない。「それでもその努力したことに意味がある」というのであれば、別にそれでいいから「○○がない」なる言い訳をしないで頂きたい。

 こういう話をすると、どうがんばっても100時間かかる仕事を20時間でやれと言われた時はどうするんだとか言われることがある。ちょっと待て。そんな話を俺はしていない。それは「時間がない」のではなくて「マネジメントおよびプランニングが間違っている」だけの話である。もう少し本質を考えるべきなのだ。
 

 
 ここで大切になってくるのが、自分の能力を評価することだ。どの様な環境で、どの様な体調で、どのようなアイテムがあれば、どれぐらいの時間で、どれぐらいのお金で、どれぐらいの仕事が可能であるのか、これをしっかりとわかっていなければならない。「100%の力が出せればできます!」なんて言葉は無意味なのである。結局今まで100%なんて出せなかっただろうといいたくなる。自分自身を、客観的に評価することは非常に大切なことなのだ。日本人という人達は、外部に向かっては能力を謙遜するくせに、心の中では「俺はやればできる」なんて考えている人が多い気がする。そんなこと思っちゃいけない。一生本気が出せずに終わるだけだ。悲しいことこの上なし。
 ちょうどオリンピックが開催されているから、オリンピックを例にとるが、金メダルを取った選手は人生最高の能力を出し切ったから取れたのではない。今できる最高の状態を引き出したから金メダルだったのだ。中には今できる最高の状態を出し切ってもメダルに届かない人はいる。それは絶対的能力の欠落が原因であって、力を出せたかどうかはまた別問題だ。そして、そういう心持で競技に望んだ結果、負けてしまう選手がほとんどだ。今回で言えば、日本人なら上村愛子や織田信成は敗北者である。そして、彼らの目には涙が浮かび「悔しい」と言っていた。「いやいや立派な結果だよ」とか「今できる最高の状態だった」とか言う人がいるが、失礼だ。そんな言葉で彼らの悔しさは解決などしない。解決しない悔しさだからこそ、彼らは言い訳しないのだ。どんな言い訳をしようとも、どれほどの時間が経とうとも、その気持ちは絶対に失われない。彼らは、もう少し練習ができればとか、環境がよければ等と言わない。それは、ただ負けた結果悔しかったこと以上に、そういったリアクションとしての感情ではない悲しみや怒りが渦巻いているからに他ならない。そして、それがプロなのである。そして我々も、人生というフィールドに置いては皆プロにならなければならないと思う。

 俺は暇が大好きで大好きでしょーがない。だって好きなことがなんでもできるやん。でも、忙しくなろうと思えばいくらでも忙しくなれる。暇は、作ろうと努力しなければ作れない。自分自身の能力と、残された時間やお金やその他諸々の条件すべてを考慮し、利用して、暇な時間を作るのである。
 そのためには、敢えて周りに迎合しない心の強さも必要だろうし、時には自分自身を押し殺して公共性を発揮する必要もある。まだまだ苦手で、うまくできないから、俺が持てる暇の量はきっと少ないんだろうと思う。

 それでも俺は暇がもっともっとほしい。個という人間性を存分に発揮できる空間は、俺は「暇な時」だと思っている。何者にも縛られず、自由でありながら責任が存在しない、世界でただ唯一の自分だけの世界なのだ。好きなように考え、動き、思い、願い、そして悩み、苦しみ、儚み、喜び、涙し、自分の世界をまたひとつ広げて行くのだと思う。


 芦田先生の言葉を少し変えてしまうが、

「100%の力が発揮できないのは当たり前なのだ。時間がないのも当たり前。お金がないのも当たり前。なぜなら、そのそのすべての原因は、自分自身の能力を如何に解析するかにあるからだ。適切に把握していれば、妙な○○がない発言は出てこないし、それを怠るからこそ、まるで解決不能な諸問題が湧き出てくるのだ。尊厳を持って生きることはとても難しく、皆が願ってやまない人生の過ごし方のひとつだろうが、そのためには自分自身を見つめることが重要であろうと俺は思う」

 というのが結論かな?少しまとまりがないが。。。そして、書き足り部分もある。また続きを書くかもしれない。ま、それはそれでよいだろう。

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テーマ : つぶやき
ジャンル : 日記

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No title

拝読させて頂きました。読み終わって気づいたのですが、私の場合は、制作している状態が、ちょうど暇人さんのおっしゃる暇の状態です。

>何者にも縛られず、自由でありながら責任が存在しない、世界でただ唯一の自分だけの世界なのだ。好きなように考え、動き、思い、願い、そして悩み、苦しみ、儚み、喜び、涙し、自分の世界をまたひとつ広げて行くのだと思う。<

私が、ただ無造作に線を重ねていく作業は、呼吸のようなものです。制作することを維持するために、生きるということと同じ場に引き寄せたのかもしれません。例えば、蜂の巣作りのようなものです。生活のために本能がさせることですが、同時に人間がそれを見て造形的にも興味深い、というようなものになっていたようです。

それから思い浮かんだのが、レヴィ=ストロースです。確か、原始的な生活には、働くということと遊ぶということに境界線がないことを指摘されていたように思います。

暇という定義が多面的で、揺らぎを感じさせる言葉に思えて来ました。魅力的です。まるで幻のようです。そして私も幻を生きる一人なのだと気づきました。

Re: No title


> それから思い浮かんだのが、レヴィ=ストロースです。確か、原始的な生活には、働くということと遊ぶということに境界線がないことを指摘されていたように思います。

レヴィ=ストロースってちゃんと読んだことないですね。一度読んでみよう。昨年秋に亡くなられて、非常にショックだったのですが、じゃあどんな人って聞かれると一般常識レベルのことしか答えられないという。。。


> 暇という定義が多面的で、揺らぎを感じさせる言葉に思えて来ました。魅力的です。まるで幻のようです。そして私も幻を生きる一人なのだと気づきました。

暇の定義は人に依って違うのはありますが、私は「暇」という言葉が漢字も平仮名もカタカナも音も全てが好きなので使っております(笑)。夢の続きのような時間が、「暇」なのです。

Re:Re:No title

生きがいのことをライフワークといい、仕事のことをライスワークと言った友人がいたけれど、生きていること自体がワークであるという感覚がいいなって思う今日この頃。

先日、クリスト&ジャンヌ=クロードのクリストの話を聞くことができたが、その講演タイトルでもあった「LIFE=WORK=PROJECT」は、まさに彼の生き様を体現した言葉であって、彼の人生はすなわちプロジェクトと一体だったんだ(三段論法)。

中学の頃から、「無為不待」という言葉を胸に刻み生きてきたのだけれど、英語で言うと多分"Do nothing, wait for nothing"となるわけで、語感としてはなんとなく能動的な行為に聞こえる。昔、シンガポールの華僑の友人が、"I like to do nothing. You are always dreaming."とつぶやいたのが忘れられない。

または、顔回がたどり着いた「坐忘」にも通じるかもしれない。

自らの行為を自らが意識しないくらい、現世界に没入した状態は、いそがしいのでもなく、なにもしていないのでもなく、まさに理想的な「暇」といえるのかもしれないね。



Re: Re:Re:No title

> 生きがいのことをライフワークといい、仕事のことをライスワークと言った友人がいたけれど、生きていること自体がワークであるという感覚がいいなって思う今日この頃。

生きていること自体がワークってのは、なんとなくわかります。それは、やっぱりどれだけ「よく生きるのか」が重要だってことだと思います。それを意識するかどうかは置いておいて。


> 自らの行為を自らが意識しないくらい、現世界に没入した状態は、いそがしいのでもなく、なにもしていないのでもなく、まさに理想的な「暇」といえるのかもしれないね。

そうですねー。俺の暇はそんな感じのイメージです。人ごみに溢れ返る雑踏でも、宇宙に唯一人の孤独でも、それとは全く無関係に存在できるものです。

No title

>人ごみに溢れ返る雑踏でも、宇宙に唯一人の孤独でも、それとは全く無関係に存在できるものです。

そのような境地、素晴らしい。私の場合は、憑依体質で、器のような人間なので、さまざまなものが自分の中に入って来ます。気持ちの良いものが入ってくれるとありがたいのですが、そうでないごちゃごちゃしたものが、入り込むと、私自身がこんがらがってしまいます(笑)。

なぜそうなったのか、自分なりに自分を分析してみました。すると、無ということと透明との違いのような気がして来ました。

ガラスの性質について京都で伺って、とても面白かったのですが、さらに面白いのは、さまざまな状態が、私をガラスに引き寄せていて、まるで、自分がガラスですよと言われているように思い至ったことです。

類友ですね。私は自分を無にする方法をみつけて来て、まだ透明なガラス止まりと気づきました。そういえば、水晶とガラスの違いはどうなっているのでしょう?昨日横浜美術館でポンペイ展を見て、当時紀元後1世紀に、すでに吹きガラスがつくられていたことを知りました。透明な青や黄色のガラスのコップが展示されていました。

そしてその隣に、水晶の約直径10cmはある二つの取っ手のついた杯が展示されていました。レリーフ状に草の模様もほどこされている手の込んだもの。水晶がどのくらい硬いのかわかりませんが、中を空洞にえぐる方法って、どういう方法がなされたのでしょう?そして何といってもガラスよりも透明で、無色であることに今更ながら驚きました。これを得るために、ガラスが編み出されたのではないかと思われる程の美しさ。つまり時代を経ても、ほとんど変化がみられない物質なのだという美の強さ。

水晶の器のようでありたいものですが、時代とともに酸化し、やや不透明になったたガラスを見て、自分自身を見るような心持ちになりました。工房でお世話になっているH山氏によると、ガラスが割れる、という現象すら、今の科学では解っていないことなのだそうですね。

透明ではなく、無という境地の方が、生きるのに都合が良さそうです。

しかしながら、ガラスは透過すると同時に、対峙する物が映り込み、光を反射しはねのけます。この現象がとても魅力的。

雑踏の中で「人々に圧倒され、酔ってしまった」と言ったのは、「道を外れて二人きりになりたかった」という言葉と同義語です。この心の機微をご理解頂けましたら幸いです(微笑)。

No title

すばらしいやりとりだな☆
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